すべての理由はFordson Majorでした。まだ農耕馬を使っていた時代、フィンランド西部では農耕地の石が大変な邪魔ものであり、人々は忌々しく思いながらも石を避けて作業していました。しかし農耕車が使われるようになると、農家であったアンティ・カルッカイネンはこの邪魔な石をどうにかできないものかと思案しました。当時石をどかす力を持った機械はすでに存在していました。しかしそのままではこの作業には使えないので、Kärkkäinenは自身で改造を施し、農耕地から石を撤去できる機械を発明しました。これがアンチの作業用機械である石除去機「ストーンマン・アンチ」と石除去フック「ビッグマウス」の始まりでした。これ以降、アンティは「ストーンマン・アンチ」というニックネームで呼ばれることになります。
近隣の人々はAnttiの発明に感心し、自分たちにも同じようなものをと望むようになります。近隣の村の鍛冶場で数機が作られましたが、人々はさらに良いものを望むようになっていきます。
人々の要求に応えるため、Kärkkäinenは古い納屋を改築します。そして1960年8月19日、石除去機の製造販売を行う会社を設立します。最初の会社、Rantasalmen Raivausväline(Rantasalmi Clearing Up Device )の誕生です。
会社は製品開発に力を入れていました。自社製品の研究開発が創業当時からの基本原理なのです。
次に開発した製品も石に関係するものでした。後に「PATU-talikko」 (PATU-manure fork)として知られるようになるマニュアフォークが、今日まで続く確かな評価を受けます。
1960年代の終わりには、新開発されたフレキシブルスパイクハローと最初の林業機械であるフォレストスレッジがラインナップに加わります。
1969年に創始者のKärkkäinenが亡くなると、長男のライモが社長に就任します。ライモは1971年職責を弟のセッポに引き継ぎます。会社の所有地が狭くなったことで、セッポは会社をまずヨロイネンに移します。次いで1974年に新しい敷地をケセラティに開きました。
同じ時期に会社は輸出業も始めました。最初の輸出品は1972年ノルウェーに送ったマニューアフォークでした。
会社がケセラティに移ると、社名を移動先の地名にちなんでKeslaに変更しました。敷地は広く、拡張も容易になりました。新製品も開発されましたが、主な製品は農耕用でした。1976年、エスコ・パーヤネンが代表取締役に任命されました。1977年にCentral Cooperative Hankkijaと提携を始めたとき、突然の幸運がKeslaに訪れました。生産台数が一気に増加したのです。ハンキヤとその代表ハンキヤ・マータロスとの密接な関係は、30年以上に渡って続きます。
フィンランドは豊かな森林資源を持っていることが世界中に知られています。1979年、Keslaは生産力を農耕機械から林業機械に集中させるという大きな決断を下します。1980年代になると製造数はさらに増加し、80年代の終わりには売上高が約8000万フィンランドマルカに達します。林業機械の輸出によって、KESLAは輸出企業としての地位を確固たるものにします。ケセラティの敷地も年ごとに拡大していきました。
1984年にKeslaはイロマンツィの機械化会社カルテッキの株式を獲得し、後に合併します。1988年、新たにKarjalan Rautarakenne (Carelian Iron Structure) とForesteri の2社の大部分の株式を取得し、営業区域はヨエンスーにまで拡大します。この投資によって林業用クレーンと産業用クレーンの生産が可能となり、Keslaの製品ポートフォリオはさらに拡大していきます。後にForesteriは合併します。
1988年1月、KeslaはヘルシンキのOTC証券取引所に上場されます。また同時期にデザイン・マーケティング・アクセスプラットフォームの製造を開始し、新たな部門へ進みます。90年代はじめの景気後退期には大きな経済的打撃を蒙り、会社経営の見直しを図ることになります。主な部分はそのままに、景気後退に終わりが見えると、輸出部門にさらに力を入れるようになります。輸出の需要が急速に拡大し、1992年には国内取引分を上回ることになります。以来輸出分が売上総利益の50%以上を占めるようになります。
2000年、Keslaはドイツからウッドチッパーの特許を購入し、森林技術の専門知識をバイオエナジーの分野に拡大します。金属の構造やクレーン、油圧、オートメーションに関する専門知識を活かし、チッパーをさらに改良します。その結果、業界最高レベルのチッパーが完成します。
2005年12月、イロマンツィの製造プラントがKeslaの独立した100%持ち株子会社として組織された際、Keslaは企業となりました。これにより、Keslaの構成機能とビジネスの強力な基盤をそれぞれ築くことになりました。またKesla全体の恒久的な成長についてもアイディアを出し合えるようになりました。
2006年Keslaは自社初となる本格的な海外支社をロシアのサンクトペテルブルクに展開します。同年、製品ブランドであったPATUとFORESTERIをKESLAのもとに統一します。同時に製品カラーも同一化します。またビジネスも売却し、ひとつの営業分野に専念します。それが林業技術です。2007年5月にMFGコンポーネンツ株式会社の株式をトーマイェルヴィで取得します。MFGコンポーネンツはトランスミッションに関連する製品の企画開発分野でフィンランド有数の規模を誇る企業です。
2012年2月、子会社のKesla GmbHをドイツで登録します。ドイツKeslaの営業は2012年南ドイツのジンスハイムで始まります。このドイツKeslaは国際市場開発にかけた投資の中でも最大規模のものとなりました。ドイツKeslaはドイツ国内でのセールス・マーケティング・アフターサービスを担当しています。
2016年、Keslaはヴァルトラコンパチブルトラクターアクセサリとリサイクルクレーン関連製品開発のため、AGCOグループヴァルトラおよびダルビーグループテックマットと事業提携を結びます。
2010年代半ばの厳しい経営状況に際し、Keslaは経営体制の変革を決心します。16年の夏、イロマンツィのエンドプロダクトに関わる製造部門を親会社に統合することにより、会社体制の簡素化を図ります。リソースを林業機械部門に集中し、2017年9月にMFGコンポーネンツ株式会社の製造ビジネスをKotkaパワーテック株式会社に売却することで、マシンワークショップシステム事業を終了します。MFGコンポーネンツはパワートランスミッションの輸入を請け負い、グループ企業として営業を続けています。
売上総利益4000万ユーロ超の企業をさらなるレベルに押し上げるには、より透明性が高くシステマチックなマネージメントシステムや、カスタマーの需要に対するさらなる理解、よりユーザビリティの高い画期的な製品開発などの斬新な経営ビジョンが必要でした。グループの構造改革は林業機械部門にもおよびました。ドイツ支店のKesla GmbHの独立していた営業部門はフィンランドに一本化され、社のランニングコストが削減されました。Keslaグループ本社の組織も再編され、林業機械部門の主な売上は以下の部門によるものとなりました。すなわちトラッククレーンおよび産業クレーン・伐倒用機材・トラクター用機材の利潤率が高い3つの部門です。いずれも自ら名前をつけたマネージメントと様々な分野からのメンバーがいます。すべての営業部門はアフターサービスと共同経営により社のサポートを受けています。
Keslaは高性能林業機械の開発・製造販売を専門に行っています。高性能でユーザーフレンドリーな積載型林業機械を各種取り揃えており、主にトラクター用・集材機・車載式クレーンの3種を扱っています。2019年度の純利益は4700万ユーロに達し、うち68%が輸出利益となっています。1960年創業、ヨエンスー・ケセラティ・イロマンツィに製造工場を構えています。またドイツのアッペンヴァイアーにセールスオフィスが所在しています。K現在約250名のスタッフが業務にあたっており、KeslaのA株はナスダック・ヘルシンキに上場されています。